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医療法人社団皆成会 中野医院
内科(循環器内科・呼吸器内科・消化器内科)
群馬県渋川市渋川893-33
TEL:0279-22-1219

院長の手記

令和6年4月3日入学式訓示(加筆)

13期生の皆さんへ

ご入学誠におめでとうございます。

本年の元日に発生した能登半島地震の発災からすでに3か月が過ぎ去りました。
しかし、いまだに不便な避難生活を続けられている被災者の方が多くおられ、奥能登の復興には地形的な特性もあり、息の長い支援が必要になると考えられております。
テレビでも放映されているように、災害医療の現場でも多くの看護師の皆さんが活躍しているのは皆さんご存じのことと思います。
看護師の仕事は大変ですが、しかし、看護師への道は長く、困難な道でもあります。
ここに看護師への道を選択し、ここに渋川看護専門学校にご入学なされる皆さんと、それを後押ししてくださる父兄の皆様に感謝と敬意をまずもって申し述べさせていただきます。

「善いことは、カタツムリの速度で動く。」『インド独立の父』と呼ばれる、マハトマ・ガンジーの言葉です。
学業において成果を求めるのは当然の希求であって、特に若い皆さんにおいては、早くに結果を求めるのも当然とは思います。
これからご入学とのことですので大変張り切っていることでしょう。
しかし、勉強の途中でカタツムリどころか八方ふさがりで立ち止まっているような思いもするかもしれません。
そのようなときは一人で悩まず、仲間やご家族、カウンセラーの先生もおりますので是非相談をしてください。必ず善きことは来るものと信じてください。

注:ガンジーは「非暴力と不服従運動(サティア・グラハ)」の指導者として、断食(ハンガーストライキ)や英国の物品を購入しないなど、暴力とは無関係の戦いをしたのです。
この「非暴力と不服従運動」は、何百人もの人々に支持され、インド全土に急速に広まりました。
並行して、貧困層への問題解決に乗り出し、インド産業を育てることにも尽力したのです。

1930年ガンジーは弟子たちを引き連れ、ボンベイ州ダンディ海岸に向けて、400キロメートルものデモ行進を敢行。
これが有名な「塩の行進」です。
ガンジーたちの行進を止めようと、400人の警官が棍棒を振るって突入してきました。
でも、ガンジー一行は誰一人反抗せず、整然とデモ行進を続けました。
当時は、インド人による塩の製造を禁止されており、その抗議として海岸に向けてデモ行進をしたという事件です。
その後ガンジーは禁固刑に処せられています。

一方、公立夜間中学校というのを皆さんご存じでしょうか?
群馬県には無く、全国で34校、近いところでは埼玉県川口市にある芝西中学校陽春分校があります。
どんな人が勉強しているのかというと中学校を卒業していない人、できなかった人で、平成29年の統計では年齢別には60歳以上が456人(27%)と多く、貧困や病気、戦中戦後の混乱で、義務教育の器から漏れてしまった高齢者の人たちが一生懸命プリントに向かい、ひらがな、カタカナの書き取りをしているといいます。
いくつになっても学ぼうという気持ちがあれば、それには遅過ぎるということはないのでしょう。
最近は不登校や虐待などの事情で実質的な授業を受けられなかった子供たちや、外国籍の人たちが増加しているとのことです(15-19歳:20.3%)。
そこまでいかなくてもヤングケアラーといって家事や家族の世話を日常的に行っている就学世代はアンケートでは、群馬県内中学校2年生の5.7%、高校2年生の4.1%いるとのことです。
海外に目を向ければ紛争でその日生き残ることさえ困難な子供たちの映像が毎日のように流れております。
普通の日常があり、普通に勉強できること、カタツムリの速度と思ったとしてもその幸運に感謝していただければと思います。

黒衣(くろご)(平成30年群馬県医師会報寄稿)

上野駅で新幹線を降り、中央改札口から地下鉄の地下道に向かう、暫く歩いて地下鉄日比谷線に乗り継いで東銀座(歌舞伎座)まで往復する。
ほぼ月に1度の習慣となった平成30年も明けたある日、地下鉄の駅の風景もオリンピックを控えて化粧直しが進み、近代芸術的になってきたなと思いながら地下鉄に乗り込んだ。
つい中吊り広告などを眺めていたら、「幸せだなあと思って思わず子供の手を握った。~子育て支援日本一~幸手市」のキャッチフレーズに幸手権現堂桜堤と一面の菜の花畑の中で手を繋ぐ父子の姿が大きく揺れていた。
地下鉄の電車内広告は大変高額だと聞いたことがあるが、人口5万2千人、高齢化率30.7%(平成28年度)の埼玉県幸手市が自市の広告として行う、何とも挑戦的な試みではないか。
その後渋川で、「地域包括ケアからケアする社会へ」~幸手モデルにみる医療から生活まで住民とともに考える街づくり~講師 東埼玉総合病院 在宅医療支援拠点事業推進室 中野 智紀 医師」という講演会があり、地下鉄内の広告を見てから興味もあったので聴講した。
特に、地域包括ケアは高齢・健康問題から、あらゆる世代、あらゆる生活問題へ深化し、生きること、生きることの困難さに向き合う政策であり、福祉(生活モデル)の話となる。
しかし地域は必ずしも福祉的な場所ではなく、地域を福祉的な場所にするためには①福祉的な人を発掘して繋げる、支援する②地域に開かれた福祉実践を増やす③ソーシャルワークを教育的に広げることを基本理念として、そのため専門職が住民と繋がり伴走して行く、そして地域のコミュニティーを作り強化するという点が印象に残った。

歌舞伎の舞台で何かと目に付く黒衣(くろご)であるが、これを裏方と思う方もいるが、実は俳優、俳優の弟子であり、黒衣は芝居の段取りなどをしっかりと呑み込んだうえで、舞台の俳優と息を合わせて行動する。
また目立たぬように出てきて、手際よく役割を果たすため、芝居心や演技力を必要とする。
いわゆるケアする社会における、住民と繋がり伴走して行く専門職の領域にも通じる。

ところで2025年問題は高齢者問題であるが、2045年は人口問題が顕著となる。群馬県の試算では群馬県の人口は2割減少し、155万人となる。
この渋川市などでは少子化も進み、40.2%も減少、現在7万8千人の人口が4万6千人程度になるという。
高齢化率の加速を考慮すれば、一体どの様な社会が待っているのだろうか。
故に、子育て世代に重点を置き、若い世代を地域に増やす施策は何よりも重要となる。
高額な広告代を支払ってでも、子育て世代が増え、子育て支援を通して福祉的な人材となり、黒衣としても活躍してもらえれば、それは大いに地域づくりに資することになる。

年頭所感(令和6年)群馬県医師会報寄稿

明けましておめでとうございます。
新型コロナウイルス感染症の対応に追われた日々も昨年は新型コロナウイルス感染症の分類が感染症法上2類から5類への移行に伴い、不安の中にも社会経済活動の再開を図り、時代はウィズコロナへ舵を切った形となりました。

しかし、これまで人と人との接触を制限した結果、免疫能の低下から、季節外れの季節性インフルエンザ等の感染症の流行が認められ、生活の中で得られる獲得免疫の重要性を再考する結果ともなっております。

また、昨年は記録的な猛暑が続き、農作物への影響も大きなものがありました。
このまま異常気象が続くとしたら、食料の不足と価格高騰は一触即発であるとも感じます。
原油価格も高止まりであり、これらを国外に依存している我が国とすれば、諸外国の農作物の不作や飢饉、紛争については対岸の火事だけでは済ますことはできないでしょう。
また昨年、ウクライナで始まった戦争も長期化し、イスラエル・パレスチナの地域紛争も拡大・飛び火の様相を呈しております。
地政学的に我が国の近くでも起こりうることがあれば、我が国の貿易・観光などに甚大な打撃となり、コロナ後の経済回復も一夜の夢となるかも知れず、多くの先生方に置かれましても憂慮されている事態ではないかと思います。

だいぶ前の話で恐縮ですが、私が大学院生の頃、多くの中国人の留学生を我が国は受け入れておりました。
ちょっとお名前は忘れてしまいましたが、留学生にしては年齢が40歳近かったでしょうか、当時内分泌ホルモンなどの測定法としてRIAを学びに来たといっていた中国人の留学生が教室におりました。
同じ頃、アメリカから帰国したばかりの今岡先生という血小板研究が専門の先生が、この中国の留学生と大学院生の私とを宿舎に招待してくれました。
奥様と2人暮らしの宿舎の食堂に奥様手づくりの料理が並んでおりましたが、この中国からの留学生は一切料理には手を付けず、先生の手をずっと握り、「中国と日本が戦争になったとしても私とあなたはずっと友人です。」と、言い続けていました。もう40年も前のことです。
当時の中国のイメージといえば、天安門広場前の大通りを雲霞のごとく走り去る自転車の群れなどで、とても現在の隆盛などは想像する由もなく、日本の援助が必要な発展途上国といったところで、そのときは過去の戦争を引き合いにして感謝を伝えたいのかなと思っていました。

しかし今日に至り、紛争における国家間の調整の難航、国連安保理事会の機能不全などの状況下において、たとえ国家間は戦争になったとしても個人どうしの友情には変わりはないという言葉に、なぜか一縷の望みを託さざるを得ない気さえします。

最近はコロナ禍のころと比べて多くの外国人が日本に働きに来るようになり、日増しにその数を増やしています。
先生方の外来にも診察に訪れる外国人も多くなっているのではないでしょうか。
どこの国出身であれ患者は患者、誠心誠意診察されていることでしょう。
自分などは時に彼らから国のお土産などをお礼にもらうと、なぜか国際交流気分にさえなってしまいます。
人と人との交流にはやはり国境は関係ないような気がします。

医療を含め、国境がないといわれる芸術、学術、文化、スポーツなどでの交流に、国家の政策は持ち込まないことで、人と人とのつながりを維持することが、解れた糸のような国家間の紛争の、根本的な打開策にはならないのはわかっていても、大切かなと思います。

心の力(令和4年11月 北群馬学校保健会寄稿)

この数年間新型コロナウイルス感染拡大のため、教育の現場では様々な制限の中での活動を余儀なくされたこと思う。
学校を訪問した際には先生方から、活動制限の中「子供たちは勉強ばかりしています。」いうお話を聞いた。
学習以外にも普段ならば学校生活は学級会、社会見学、遠足、修学旅行、写生大会、授業参観、運動会、それに各クラスごとの行事などイベントが盛りだくさんである。
その中で子供たちは最後までくじけなかったりする意志の強さというようなことから、相手を思いやること、互いに信頼しあうこと、励ましあうことなどを含めた「心の力」を育む。
それでも熱心な創意工夫をもって、これらイベントの代替案を立案、実践されていることと思うが、やはり物足りなさは先生方皆が感じられていたのではないかと思う。

「心の力」を育むことは、当然「心の健康」につながる。
夏目漱石は「神経衰弱は新世紀の共有病なり」と言ったが、それから百年後の現在、うつ病患者は日本に百万人ほどいるといわれ、自殺者は平成21年には年間3万人を超えた。
その後、全年齢では3~4割ほど減少傾向がみられたものの、痛ましいことに、10歳代の自殺者はほぼ横ばいで、百年ぶりの高水準である。
さらに死に至らないまでも、自殺企図の報告件数はかえって増加に転じているという。
人間は自分の生きている社会や時代と無関係に存在することはできないが、この社会や時代の煽りを一番まともに受けたのが10歳代のこどもたちといえる。

最近、逆境(ストレス)に負けずに回復(レジリエンス)する力を「こころの力」、「ココロノチカラ」と表現される著書や歌詞がちょっとしたブームとなっている。
しかし、本稿でいう「心の力」は、傍若無人的な強心臓を意味するのではなく、平成20年に刊行されたある文庫本の中から、「風に揺れる校庭の木をぼんやりと見ていた。
風って目に見えないけれど、すごい力を持っている。見えない力と同様に、心は数字では測れない。強弱はあるけど・・中略・・「心の力」は言葉が簡単なだけ、いろんな意味に取れる。
何かをするのに頑張ったり、最後までくじけなかったりする意志の強さとか我慢強さというようなことから、相手を思いやること、お互いに信頼し合うこと、励まし合うことといったことまで、「心の力」という言葉が使えると思う。
一人ひとりの心が持っている力はとても強く、いろんなことを可能にするんだということをこれからみんなに話していきたい。」と、初めて小学校4年のクラスを担任した先生の日記からの引用で、あとがきに、筆者の姉は不慮の事故によって他界してしまったが、生前、小学校の教員を務めていた。
後年、実家の押し入れなどに残されていた遺品を整理していると、勤務当時のアルバムや文集、子供たちからもらった手紙、不登校児童の母親と交わした連絡帳の写しなどが出てきた。
子供たちに混ざって溌溂とした姿を見せている野外学習の写真や子供たちからのメッセージ、不登校問題に悩む文章・・中略・・それらはあまり目にしたことのない姉の「外の顔」であり、先生の仕事、こんなに頑張ってやっていたんだ・・という発見めいた思いをしんみり抱いた。
その時の感慨をモチーフにして創り上げ、この作品の中に何かが息吹いてくれるものと記している。
なんだか読書感想文のようになってしまったが、本文の「心の力」の意味をお汲み取り願いたい。

社会や時代の煽りといえば、小さい子供たちへの虐待があげられる。
児童相談所に寄せられた虐待相談は、0歳から小学生までで80%を超える。
平成12年の児童虐待防止法制定時の群馬県内の虐待相談受付件数は324件であったが、平成27年に1000件を超え、令和2年2286件、令和3年1909件と高止まりとなっている。

そのほか、ヤングケアラーの問題もある。
アンケートでは、県内中学校2年生の5.7%、高校2年生の4.1%が家事や家族の世話を日常的に行っているという。
同じ時代を生きる「大人」として看過することは決してあってはいけないし、社会全体で考え、解決すべき重要な事項である。

最後に、これらの子供たちが、「普通の子供」でいられること、失いつつある「心の力」を信じ、取り戻せることを願いつつ、この拙稿を終えたい。

年頭所感(令和5年)群馬県医師会報寄稿

明けましておめでとうございます。
振り返りますと昨年までは新型コロナウイルス感染症の対応にあわただしい日々が続きました。
新年は社会経済活動の再開を図りながら不安の中にも、新たなウィズコロナへの模索が続くと思います。
しかし、これから先、これまで起こったことを考えれば、これから何が起こるか予断を許さないというのが皆さま方共通の認識ではないかと思います。

先日、地域の防災訓練に地区医師会として参加してまいりました。
ある地域は急峻な谷の合間に広がる集落で、河川敷の近くに防災拠点を置かざるを得ず、ハザードマップの真ん中に避難施設があるという状態でした。

たしかに群馬県は災害が少ないといわれております。
しかし令和元年10月の台風19号は群馬県内でも4名の方が犠牲となり、富岡市では500mm近い累計積雨量を観測、河川の増水、浸水、土砂災害の発生が相次ぎました。
特に富岡市内匠地区で発生した土砂災害は土砂災害警戒区域外で発生したものであり、想定を超える事態にどう対処すべきか問題を突き付けられました(令和元年10月台風19号災害検証報告書:富岡市より引用)。

先の東日本大震災罹災後に書かれたある新書の中で著者は、被災地を訪問した時、あっと息を吞むような光景に出くわしたそうです。
ある家は全壊、家族は全員死亡か行方不明、しかしわずか1mも隔っていない隣家は全員難を逃れ、家屋はやや傾ぐ程度の被害しか受けていなかった、こういった生と死、幸運と不運がはっきり際立つ光景を目の当たりにして著者は、偶然の幸運に安心する楽観論に対してはっきりと異議を唱え、そしてこの震災後(今年で12年)に起きた世界の出来事や歴史、そしてその延長上に予想される時代のこと考えるとそう安心はしていられないはずだと論じています。

振り返ってみれば、確かに大震災の後には悲惨な歴史が続きました。
1923年9月1日の関東大震災の後から1945年8月以降に及ぶまで、我が国は大恐慌の後に戦争に突入、戦渦に巻き込まれ未曾有の苦難を味わいました。
しかし多くの日本人が戦後生まれとなり苦難の記憶を語る人もいなくなる中、過去、歴史の教訓を見失い、ましてや同じ過ち、同じ災禍が繰り返されることは決してあってはならないことです。

現在は、こうした不安に怯えるつかの間の幸福感があるだけの、不確実な時代のようです。
これまでの多くの犠牲を払った過去、歴史をじっと見つめ、振り返り、未来へ向けて生かし、力に変えていく必要を感じます。
不確実な時代だからこそ一致団結、医療活動へのご理解ならびにご指導、ご協力のほどお願い申し上げます。

末筆ながら皆さまのご健勝とご活躍を祈念いたしまして、以上、年頭の挨拶とさせていただきます。

二十年

平成29年はインフルエンザの流行が例年よりも早く到来した。
感染症定点医療機関でもあるため、定期的に病原体検出を行ってきたが、この地域で、昨年より流行がみられているA型インフルエンザは、当初AH1pdm09型であったのに、昨年12月末からAH3型が、一気に多く検出されるようになった。
そのためか流行が加速している感がある。

早めのインフルエンザの流行は、今年の「二十歳の旅立ち」にも少なからず影響した。
多くの市町村では1月8日に成人式を予定していたと思うが、前日の7日に発熱などで受診、検査の結果インフルエンザと診断した新成人が多かった。
正月に家族がインフルエンザを発症、注意していたにもかかわらず、家族内発症の巻き添え例が多かった。
女性の場合は昨年から晴着を用意し、当日は美容室などで、朝早くから着付けの予約など、晴れやかなイベントになる予定であったのだろう。

残念だったと思うが、人生の晴れ舞台はこれからだし、また、今回以上の苦い経験も待っていると思う。
強く逞しく、良き人生をと願うばかりである。

ふと20年前はと振り返ってみれば、出来事としては、
消費税率を5%に引き上げ、日本サッカー悲願のワールドカップへの出場決める(ジョホールバルの歓喜)、フジテレビが東京都港区台場の新社屋から本放送開始、山一證券破綻、東京湾アクアライン開通、臓器移植法施行
ヒットしたものは、プリウス(トヨタ)、メモリースティック(ソニー)、ハイパーヨーヨー、失楽園、鉄道員(ぽっぽや)アサヒ・スーパードライ、キシリトール(ロッテ)
歌謡曲では1位 CAN YOU CELEBRATE 安室奈美恵(222.3 万)2位 硝子の少年 KinKi Kids(168.6 万)3位 ひだまりの詩 Le Couple(146.1 万)4位 FACE globe(132.3 万)5位 STEADY SPEED(127.9 万) 6位 PRIDE 今井美樹(126.0 万)など。

でも20年前のこととはあまり思えないのは自分だけだろうか。
小さい頃とは違い、光陰矢の如しより、高速LANのデータ通信のような時の速さにも感じる。

医療面では必ず病気を治す医療から、高齢者も多くなり、病気を抱えながらなるべく入院しないで地域で過ごす医療に変わりつつある。
17年前の介護保険導入後、国の施策により多業種の介護領域への参入が解禁され、雨後の筍の様で多くの小規模施設が設立した。
地域の開業医にとって良くわからないうちに、色々な伝手で、そんな施設の協力医だとか嘱託医を頼まれて、訪問診療することも多くなったと思う。

ある開所間もない施設は、常勤の看護師は2人であるにもかかわらず、経管栄養チューブや膀胱カテーテルの入った利用者を多く抱え、結局、誤嚥や尿路感染で救急搬送の転帰をたどるものが多かった。

確かに安定して入所者を確保するには、病状の安定した方に入所していただくのが経営的には良いと思うが、このような方々は他の施設にとっても貴重な存在となるので、よほどの伝手がないと新規開所施設には回ってこないので、多少無理をしても本来ならば老健などの対象者が入所してくる。
その後も順調に施設数は増加しており、そうすると介護職も、より報酬や労働条件の良い施設を選び、移動するようになる。

先日、ある入所者の受診希望があり、その入所者を文具販売業が本来の業種である施設の責任者(社長?)が連れてきた。
職員に頼んだらいろいろ言われたので、自ら連れてきたのだと言う。
それはそれとてさすがは経営者、立派な心構えだと思う。
介護領域は大きなビジネスチャンスとも思ったが、多少雲行きが怪しくなったのも感じているのだろう、横顔に陰りを見たような気がした。

確かにこのような施設は病状安定している入所者が残ったとして、空室(個室)が目立っている。
更に病状安定、要介護度が高い入所者は特別養護老人ホーム(大部屋・経費が安い)への転出もありうる。
2035年問題のように今後も高齢者が増加するとの厚生労働省の試算では、このような施設も、また持ち直すことが期待されるというのだろう。

二十年前は元気に通院していた患者さんの中には、体が弱ってきたため通院できず、こちらから訪問する方がいる。
普段の外来診察ではめったに話さないことではあるが、訪問時にはいろいろ昔の話などを伺う。
そんな中でも五十数年前の当院の開業当初は、小児の入院も抱え、夜遅くまで診療が続いたこともあったと聞いた。

夜遅くなり、帰りのバスもなくなったので、当時はまだ珍しい自家用車で家まで送ってもらったなどの話を聞いて、遠き日の自分の知らない若かった頃の両親の姿を垣間見る気がした。
自分も父の急逝のあと開業して二十年が過ぎ、開業医としては成人式を迎える。
また父の後を継いで間もない自分を支えてくれた母も亡くなり、昨年で3回忌を迎えた。

最近の自分の日課としては朝少し早めに医院の窓を開け、空気の入れ替えることから始まる。
まだ研鑽、研修はもとより、医療制度への対応など、もし無事であればこれからの二十年は、こうして更に早く過ぎて行くことだろう。
最後に、この地域への足掛かりを残してくれた両親と、この二十年を支えてくれた方々に感謝をしつつ、この拙稿を終えたい。

震災・支援・税金

平成23年は大震災・津波・水害・放射能等に翻弄され、被災者の方々や被災地の復興支援に多くの日本人が痛みを共有し、いろいろな支援のあり方が模索されてきた。
義援金の募金に街頭に立ったり、救援物資を直接被災地に届けたり、炊き出しをしたり、節電したり、寄付に応じたり、等々、枚挙の暇もないとはまさに今回の支援のあり方、このことでもあろう。

何かしたいという気持ちはあるがいろいろな状況・事情でなかなか被災地などに直接いけないというもどかしさを感じながら、この10ヶ月余りを日々の診療に勤しんできたという諸兄も多いことと思う。
自分も父のあとを継ぎ医者1人だけの診療所で毎日診療を続ける日々を送ってきた。
もともと日曜・祭日くらいしか休みはなく、3.11以来、日本循環器学会をはじめとして多くの学会の開催が中止・延期となり、さらに出かける機会もなくなり、計画停電・節電・自粛ムードの中、5月の連休も、8月の盆も遠出することはなかった。

そんな日常のなかでも決算・申告・納税という日常がやってくる。
前述のいわゆる自粛ムードのなか、建物修繕、設備拡充などといったことは必要最小限、ないしは後回しとなり、ただでさえ外来だけの内科診療所では診療報酬は抑制され、収入は現状維持がやっとであるにもかかわらず、申告所得は増加した。
結果、納税額は前年度と比較して百数十万円の増額となったが、これも1つの支援のあり方と思っている。
考えてみればこの年末年始もどこへも行かなかった。

日本という国は危機に陥ると税のしくみを考えてきたという、「坂の上の雲」でも有名な日露戦争時にはあの相続税が印紙税とともにその最中(1905年)に生まれ、法人税などは1899年にこれまでの所得税法を改正して誕生し、1904年に税率を引き上げている。
いずれも戦争のための「非常特別税」のはずで、戦争がおわったら廃止ないしは元へ戻すはずだったが、財政難を理由に政府は恒久税にしてしまった。
税というのはいったん実施すると、廃止はまずないという良い例とされている。
昨今の「税と社会保障の一体改革」、「復興債」、「消費税」、一度制度化すればいろいろ形を変えても存続し続けるだろうし、消費税については、一度税率を上げれば下がることなどまずないと考えるのが妥当であろう。
普遍的日常に感謝し、日々自らの仕事に勤しむことは被災地の復興支援に納税という形で貢献するだろうが、今後、政府は税制(義務)という形で国家危機に対する支援を国民に求めてくるだろう。
明治の日露戦争のあと、大正には関東大震災があり昭和恐慌と続く、その後は・・・。

この文章は平成24年1月3日、渋川地区夜間急患診療所の当番の合間にパソコンを開き執筆しました。
当時、インフルエンザも少し出始めましたが、急性胃腸炎症状を訴え、受診する人が多く、朝から嘔吐が続き、顔色不良、脱水状態の子供も来ました。
両親の所用で自宅から遠く離れた当診療所への受診、ある意味での被災者(児)だと思いました。
このような状況下でしたので、乱筆乱文はご容赦ください。

随想(金沢医科大学同窓会誌 寄稿 校正)

ここ内灘で過ごした10年の日々はいつまでも忘れ得ぬ想い出である。
私は1978年に金沢医科大学に入学し、故郷群馬県が海の無かったこともあって、ひときわ海への憧憬が強かったこともあるが、海が身近にある日常が不思議で、新鮮で、こちらに着いた当初は夏休みが長く続いているような気がしたものであった。
当時はまだ開校して10年にも満たなく、自然も残り、広大に続くアカシヤ林と砂浜がいつも目の前にあった。
ふと想い出せば鼻の奥に酸っぱい物が拡がり、心地よく目の裏側を刺激する。
そんなノスタルジーな想い出の中で、チョイワルを気取った青春の日々を親と周囲の人たちの庇護のもと平和に暮らし得た我々であった。

しかしその一方で1977年に横田めぐみさん、1978年に蓮池さん、地村さん夫妻等、同時期に多くの拉致被害者がこの白く続く砂浜の上で自由と希望を奪われ、絶望と悲嘆の悪夢に苛まれていた事を知り得たのはつい最近、あれから30年以上も経ってしまってからだった。
「かくも長き忘却の日々」との天皇陛下の御言葉ではないが、我々もこのような災禍に巻き込まれる可能性はかなり高かったのではないか。
今、さらなる忘却の日々を風化の日々とさせないため、また今もその危険性が解決されたものでも、無くなったわけでもないことを常に念頭に置き、このような痛ましい事件があったことを忘れないでもらいたいと思う。

私はその後、大学院卒業までこの地で暮らし、群馬に帰ったわけであるが、群馬大学には金沢医大出身の先輩たちの活躍にも恵まれた。
研究発表も盛んに行い、おかげでマウス、ラット、ウサギ、イヌと様々な実験動物を扱い、研究、勉強好きの風体に、今思えばよくもこんなに変われるものだと自分ながら感心したものだったが、しかしそうしているとなぜか体裁だけではなく、気持ちも付随してくるのが人間の面白いところで、期待を集め、いつしかアメリカ留学の話も持ち上がってきた。

まあ海外旅行は嫌いじゃあないし、あまり深くは考えずに受けてしまった訳だが、留学中に結核のため片肺しかない父が気管支肺炎に患い、それでも代わり手のいない開業医の仕事は続けたためか呼吸不全状態となるなど様々なトラブルが家族や自分の周りで起こった。

これを機に帰国開業ということも考えるのが通常ではないかとも思うが、なぜかその時にはずーと維持してきた体裁が重くのしかかり、結局「自分の好きなことを続けよ」との父の言葉に後押しされて2年半弱在米、家族も一人増えた。

一外国人として、他国に暮らす日本人の意地というべきか、対外的な体裁を繕う性格というのかが拍車をかけ、朝8時から夜遅いときは夜中まで研究に励んだおかげで、論文、その他書籍など業績は、まず成功といえるくらいに多分に積み上げることができた。
さて無事帰国したのは良いが、その成果と学んできた技術というものを披露しなくてはならない。
米国と同じことを日本でやるとなると、核種の取り扱いを含め、かなりの工夫を余儀なくされる。
それでも論文や研究発表は、医局からはお金、他科、学外の研究施設にはコラボレーションということで研究を手伝ってもらい、何とか続けてきてはみたが、頼みの父が急逝したことを契機に開業に遅ればせながら踏み切った。

今、週日はほとんど休むこともなく地域医療に専念する自分がここにある。
その姿は決して今までのように重い体裁を背負っているのではなく、ただ、目の前にいる患者さんが自分の家族や遅ればせながら今もし父が生きていたらとどうすべきかと自問自答し、自分のできることを行なっている。
やっとこの歳で自然体に近づいた。

一番下の子が保育園で柴犬の雑種を拾ってきた。
獣医に診せ、皮下にリンゲルを注射してもらったがうずくまったまま、一向に水分さえ摂ろうとしない。
そこで真夜中に前足の毛を剃り、テフロン針を静脈に留置し、点滴を開始した。
そのまま嫌がらずにおとなしかったので自分も寝てしまったが、翌朝玄関は犬の小便だらけ、妻の悲鳴で眼が覚めた。
その子犬はしっぽを振って立ち上がっていた。
昔散々、実験動物として犬を使い、いつしか手馴れた屠殺のためのこの技術は、一匹の子犬を回復させ、獣医を唸らせるのに充分ではあった。

ここ内灘での想い出は海ばかりではない。
昭和56年のいわゆる「56豪雪」は入学して2年目の冬に経験した。
しんしんと降る雪、すべてを包み込む雪、「からっ風」は吹いても豪雪の経験の無い自分であったが、こんなときはじっと動かず耐えることを学んだ。
2005-6年の雪はそれをしのぐと聞く。
豪雪に耐えて迎えた杳きの春の目映さの想い出とともに、今、この地の発展と、縁あって内灘に集う諸氏の安全と健闘を祈る。

ほっとタイム(奈良行学会余話)

或る年の9月、奈良で学会が開催され、高校の修学旅行以来、数十年振りに奈良を訪ねた。
日程終了後に奈良公園の芝生の上で、十五夜の月、軽音楽とお酒の調和を満喫していると、ふとあの頃の学友と自分が浮かんできた。

そして翌日の斑鳩散策では杳き日の自分達の後姿を追っていた。

当時、教員と学生400人以上が前橋駅から電車で移動、駅のホームを男子ばかりの黒々とした集団が大挙して電車に乗り込む様はまさに圧巻で、夜は隠し持った酒があたかも当然のように振舞われたが、泥酔する者もなかった。
しかし翌日はかなり辛そうな者もいて、ある同級生は「酒飲みて騒ぎし君が背を丸め母への土産選びにけるかも」と詠んだ。
後にこの歌は圧倒的な教員達の支持で最優秀作に撰出。
今では眉をひそめて誰かしらやって来そうだが、このような歌を撰出する教員達の器量とこの高校のおおらかな裁量の中、我々はよき高校生活を過ごし得たと思う。

薬の処方を含め「医師の裁量」は狭まれている。
はたしてこの裁量を撤廃することが本当に患者のためになるのであろうか。
秩序と技量に裏付けされた裁量は決して患者の安全性を脅かすものでも保険財政を圧迫するものでもないと思う。

また奈良では仲秋の名月の頃、奈良公園と隣接する猿沢池に身を投じた薄幸の采女を慰める「采女祭」に遭遇し、古来宮廷音楽と雅を垣間見ることができた。

翌日は茶筌(筅)の里、生駒市高山を訪ねた。
茶筌は500年前の室町時代、鷹山城主の次男宗砌(そうさい)が侘び茶の祖、村田珠光の依頼により作ったのが始まりで、以来、城主一族、家臣により「製法秘伝」「一子相伝」として伝えられた。
今回訪問した良斉工房の久保良斉師は25代目となる。
この工房では様々な形の茶筌を手づくりしている。
聞くところによると茶道の流派によりその形に違いがあり、素材となる竹も多種に及ぶ。
例えば表千家流では茅葺の家の天井に使われた百年以上燻されたすす竹を使い、裏千家流では淡竹(白竹)(はたけ)を乾燥させて加工する。
また用途によっても異なり、通常は筅は八十本立であるが、筅を減じ太さを増したお濃茶用の荒穂立、天目茶碗用の天目立などがある。実に全国の90%以上の茶筌がここ生駒高山で手づくりされている。

中野医院開院50周年(平成22年1月)に寄せて

私が生まれたことが契機となって、先代の父が開業を決意、以後私の齢とともに、中野医院も歩んできたということになります。
当時は大きな病院なども少なく、夜間救急に対処する医療機関もまだあまり整備されていない状況でした。
そのような中で、小児の救急や入院加療を、まだ1歳に満たない私を抱えて、まだ若かった両親はやり抜いてきたのだと思います。
私もその両親の姿をみて、自然と医師になろうという気持ちになり、医科大学、大学院、その後海外留学の機会も頂くこととなりました。
留学当時は60歳を過ぎ、やや病弱であった父に「自分の道を行け」と背中を押され、母からは「はしけやし 花咲き昇る 君子蘭」の詩とともに餞別を手渡され、アメリカに2年半ほど滞在させていただきました。
もともと家族の少なく、私の代わりがいなかったため、滞在中は多くの困難が当院を襲いましたが、多くの患者さんや周囲の方々の御厚意により、細々ながら開業を継続させていただきました。

その後、父の急逝を受け、当院を平成9年10月14日、継承いたしました。
まだ研究や学会活動、大学での業務などに未練があったわけですが、毎日、患者さんに接しているうちに、日常の診療の中にやりがいを見出して行く自分がありました。

平成15年10月14日より前橋のなかの矯正歯科をふくめ、中野医院は医療法人 社団皆成会として新たな一歩を踏み出しております。

現在、地域医療崩壊が大きな課題となり、医師不足が深刻化しております。
加えて地域医療のほかに産業医活動、学校保健活動と開業医の仕事内容も幅広くなってきました。
次の更なる歩みを自分なりに進めて行きたいと思っております。今後とも御指導、御鞭撻の程、お願い申し上げます。

茲に50年誌を発刊するにあたり、半世紀の重みと共に中野医院を支えてくださいました多くの方々のご厚情とご支援に改めて感謝申し上げます。
ありがとうございました。